→前日の続きです。
「死」に対してもそうです。
テレビで著名人が亡くなったニュースを見た時は、妙に重く受け止めてしまう感覚はあるのに、事故で数十人が亡くなった時はそのニュースの話題性の大きさに目がいってしまう感覚はいかがなものでしょうか。
昔は自宅で看取り、日常であった「死」も、いつの間にか「非日常」になっています。
殆どの方が病院(非日常)で最期を迎えています。
必ず人に訪れる「死」にもかかわらず、「日常でないことが非日常」であることに気づく時期なのかもしれません。
とはいえ、自宅で看取ることに拘るのが正しい生き方ではないと思います。
何故なら、医療の進歩と共に、寿命は延び、痛みを除くこともできるようになりましたが、その代償もあります。
そもそも、現在病院で看取られるケースが多いのであれば、これが日常と捉える見方もあります。
ただ、それでは、人が必ず持っていなければならない死生観を備えることができません。
「死」をもっと身近で、当たり前の事象であることを家族間で話し合う機会が必要だと思います。
ある往診専門の神経内科の医師から伺った話です。
「家族は、現症状から死までのプロセスがわからない。調子が崩れると救急車を呼んでしまうケースは少なくない。いくら言葉と文字で伝えても、目の前で苦しむ家族を見てしまうと救急車を突発的に呼んでしまうことがある。要するに、予後がわからない不安感を払拭しない限り、在宅での看取りの普及は難しい。」と。
これが壁だと話されていました。
先進的な未来も良いですが、身の回りの大切なものを見つめ直し、精神的に成長できる社会も、新しい未来かもしれませんね。